日本人にとってのホロコースト

東京オリンピックの演出家が、過去にホロコーストを、お笑いのネタにしたことがあり、解任された。

私は、茫然自失した。ホロコーストをネタにしたということよりも、ホロコーストを笑いのネタに出来ると思った心が、あまりにも悲しい。

それまでに、彼は自分自身が不条理な扱いを受けて、立腹したことはなかったのだろうか。

当時は、家族や親類が、その血筋だからこそと言う理由で惨殺されたとしても平然と日々を送れたのだろうか。

しかも、ホロコーストは、一個人の範囲を超えて、世界の社会的、歴史的な悲劇である。

日本は島国である。よって、日本に住んでいれば、民族間の社会的問題は見えにくい。何故ならば、日本は、大きなくくりでは、1つの民族によって成り立っているからだ。

※ 厳密には、日本に存在する小さな民族は強制的に、価値観を変えさせられたり、不当な扱いを受けたりした過去はあるが、その事実はタブー化され、ほとんど表に出ることはない。

これは、とても恐ろしいことだと思う。

ヤフーニュース なぜ日本人はホロコーストに鈍感なのか【小林賢太郎氏解任】https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20210722-00249367

『良い居場所にせよ。』

“You live most of your life in your head. Make sure it’s a nice place to be.”

The Mindfulness Meditation Institute@TrainingMindful

https://twitter.com/TrainingMindful/status/1412543632939356161?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1412543632939356161%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_c10&ref_url=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2F

『人は人生のほとんどを想像の中で過ごす。良い居場所にせよ。』

私たちは想像する。

誰かに何かを問われても、何か事柄が起きても想像する。

現状や、現状の要因、未来への対策等、様々な状況を想像しては、一喜一憂したりもする。

外からの刺激が何もない時でさえ、頭の中で、わざわざ何か探して想像する。

現実の世界で、何かをしている時間は、想像の中で過ごしている時間よりはるかに少ない。

その、想像の世界は、人によっては、とても居心地の良い場所であるが、

そうでない人に取っては、苦痛な場所である。

自分の想像の中が居心地の良い場所でない人々は、

幼少時代の両親とのやり取りに対しての感情の持ち方が大きく影響している場合が多いと言われている。

例えば、

両親、もしくは片親から、罵声を浴びせられることが多い環境で育った人々は、

子供の時に、「自分は馬鹿だ。」と思い、悲しい感情を持つことが多い環境で育ったとする。

そうすれば、

何十年過ぎても、自分の想像の中の世界で、なお、「自分は馬鹿だから・・・」と、悲しい思いを抱えている場合が多い傾向がある。もしくは、親から発せられた、「馬鹿だ」と言う言葉を世間からのものと、感情がすり替えて、世間に対しての怒りになったりもする。

その感情は、

何かにつけて湧いて来て、「自分は馬鹿だから・・・」、「自分は馬鹿と思われているから・・・」と、何かに対しての理由付けになったりもする。

しかし、

本来、頭の中の想像の世界は自分だけの世界である。

この場合の、幼少時代の親からの罵声は自分の言葉ではない。

でも、

人の心を複雑にしてしまうのは、親からの罵声に対する悲しみや怒りが、まだそこにあることだ。

何度も、その感情を感じる頻度が多ければ多い程、脳の中のその感情への道が太くなり、その感情を刺激しやすくなってしまうことである。

そして、

心理学的には、一度出来てしまった、パターン化された思考・感情の経路を変えるのは容易ではないそうだ。

しかし、

せっかくならば、自分の世界、想像の中だけは、自分に取って居心地の良い場所。

現実の社会で何があっても、その世界の中は、自分に対しての普遍的な愛に満ち溢れた場所にしたい。

確かに、人は忙しい。

この世の中は目まぐるしく変化をして、付いて行くのに必死になってしまう。

自分の感情を押し込んで生活する方が楽かもしれない。

しかし、

社会の本質に目を向ければ、一番に私たちが向き合わなければならないのは、自分自身なのだと、私は強く思う。

自分だけの世界は、自分に取って掛け替えのない世界だから。

そして、

その感情は、人の表情を変え、対応を変えて、連鎖になり世の中が変わると唱えている人達が居るのも程である。

人の放つ波動は、他者に影響する。

https://ameblo.jp/prajnaparamitaya/entry-12685612868.html

Emanate Love ~ 愛を発散せよ ~

“If you want to cure the world, don’t emanate fear, emanate love.” ~ Ram Dass— The Mindfulness Meditation Institute (@TrainingMindful) 2021年7月2日

『世直しをしたいのであれば、恐怖を発散するな、愛を発散せよ

言い直せば、「世の中をより良いものにしたいのであれば、恐怖心を抱くな、愛を抱け」と、なる。

この世のものは、全て微粒子な同じ物質で出来ており、それは回転することで振動したり移動し、エネルギーを持ち、引き寄せたり離れたりする。

これは、一般常識である。

よって、人が心の中に、感情を抱けば、それは脳波となり私たちにとっては、気づけない程の微細なエネルギーを発散し、周りに影響を及ぼす。

その影響は、大概の人間には、認識できない程のものだが、まわりには大小なりとも影響を与えている。

波動と、波動が出会えば同調する傾向がある。

お互いの波長が合えば、そのエネルギーは増幅し、より大きなものにもなる。

この世の中には、何億人もの人が存在して、それぞれに、それぞれの波動を発している。

そのことを、考えれば私たちが地球上で周りに与えている影響は、多大なものなのかも知れない。

もし、あなたが、あなた自身のエネルギーに対して疑問を抱いているのであれば、考えて欲しいことが一つある。

核や周りのエレクトロンはそれぞれが回転することにより、わずかなプラスとマイナスの磁場を発生させて、上手いこと引き寄せあうことにより大きな物体になる。それは、一つの運命共同体なのである。

それぞれは小さな存在だが、それぞれがお互いを引き寄せて、より大きな引力を起こす。

そして、それはまるで一つの存在の様に存在し、振舞う。

この世のものは、全て、そうなのだ。

人も例外ではない。

人間の体を形成している数知れない微粒子は、お互いを引き寄せあっている。

体を形成している微粒子の一つ一つが、その様な形で存在する為に強力にお互いを引き合っていなければ、それぞれの粒子は離れて行ってしまい、存在は消滅してしまう。

実は、そこには、その微粒子たちは、その特定の人間になりたくて、そして、それを形成していたいのかも知れない。

現実に、量子力学会の中で、微粒子は意思を持っていると言う考えもあるのだそうだ。

『我慢する人生は何も残らない』

誰かが、

『我慢する人生は何も残らない』

と、述べていた。

実は、

私は、この言葉を聞いてブログを再開した。今後、ユーチューブでの発信もしていく予定だ。

私は、

「自分らしくないから…」

と、本当の自分で居られるブログを辞め、周りに馴染もうとしていた。

すると、だんだん、自分自身が不可視化していくような気がした。

他人にだけではなく、自分自身にもだ。

おまけに、表現できないような、悶々としたイライラに始終苛まれ、どこから来るのか解らない得たいの知れない不安感に襲われていた。

『我慢する人生は何も残さない』と、言う言葉を聞いて、気持ちが軽くなった。

自分らしくいる為の理由を得た気がした。

家族から嫌悪感を持たれるか知れないと言う不安はあるが、誰かに迷惑を掛けるような事ではない。

人は、生きている人生が長くなれば長くなる程、他者が望む自分になろうとする気がする。

確かに、長いものに巻かれていた方が楽ではあるし、迷惑もかけない。

しかし、それでいいのであろうか。

私は、私を生きることに決めた。

人生の選択

人生の選択|https://ameblo.jp/prajnaparamitaya/entry-12684537369.html

『全ての人には辛い物語がある。それを、理由にするか、やる気に変えるかはその人次第である。』

常に思い通りに人生が進んでいけば良いが、大概の人は壁にぶつかったり、大切なものを失ったり等の経験をする。

例えば、その辛い思い出と同じ状況に再び立たされた時、「どうせ、無理だから…」と、やりたい気持ちを抑え込んで我慢して諦めてしまうのか、その辛さをバネにして、「なにくそ!」と、壁にぶつかって行くのかで、それから先の人生は全く違ったものになる。

諦めてしまう人生は、簡単に想像できる。

しかし、チャレンジする人生の可能性はは未知数である。

どちらの人生を選ぶかは、個人の自由である。

きっかけ

小学生の時、初めて飼い犬を交通事故で亡くした。

その時、私は人類が自動車と言う、生物の命を簡単に奪ってしまう武器を『道具』と呼んで重宝していることに失望した。

友人を失った悲しみと、人類に対しての絶望で何日も泣き明かした。

しかし、 不思議なもので、そんな強烈な思いでも、時の過ぎ去る中で薄れていき、いつの間にか忘れてしまっていた。

でも、それ以来、ずっと、心の中に闇を感じながら生きて来た。

最近、ふと、その時のことを思い出した。 テレビのニュースで、残酷なニュースを目にして思い出した。

「この世の中は何かが間違っている」

自閉症スペクトラム障害と診断を受けた、友人のお子さんは、あまりにも純真で愛らくの人々を信頼して接する。

               

その子は、まるで究極の癒しのパワーを持っているように周りの人をほんわかな気持ちにさせる。 その子の母親である、私の友人は、その子のことを心配している。

この世の中では、その子はいじめられたり、ひどい仕打ちに逢って生きていけないかと感じているそうだ。

確かに、過去にそのような事件が起きた。私は、

世の中とは、そう言うもだ。」

と、思うようになっていた。

そして、日に日に悶々とした苛立ちは、鬱積していき、自分が針ネズミになったのを想像しなければ地下鉄にも乗れなかった。

そんなある日、

純粋な子ども達が、素直な心持ちこそが重要視され、世の中の基準になる世界でなければならない。」

と、思った瞬間、心が軽くなり、心にまとわりついていた、悶々とさせる何かが剥がれ落ちていくのを感じた。

忘れてしまっていた熱い気持ちが込み上げてきた。

でも、私に何が出来るかは全く解らない。

何か行動を起こしたくてこのブログを始める。

これから、何か楽しいことを夢見て現実化したいと思う。

光の子ども達のために…

きっかけ

人生の川

「読み終わったチャプターを読み返している内は、人生の次のチャプターへは進めない」

この文章を読んで、私を読書好きにした本を思い出した。

それまで、私は本はほとんど読んだことが無かった。

学校の教科書を読むのに疲れて、目で文字を見、頭で意味を思い出し、前後関係と照らし合わせて行くというプロセスが致命的なほどに嫌いであった。

ついでに言うと、何かを読んでいる時に、言葉が耳から入って来ると、そちらの方に興味が向いてしまっていた。

そのことは、余計に文字を見ることへの嫌悪感を私に再確認させていた。

しかし、ある時学校でディスレクシアを疑われて専門家の面談を受けた。

その面談の終りで、専門家から言われたことは、

「読まなければ、読めるようにはならないよ」

あたりまえだ。

私は、その足で本屋へ向かった。

本棚の背表紙を見ても、あまり気持ちは動かなかった。

その本屋を後にしようと、出口に向かうと、そこの『Price Down』のコーナーが目に入った。

一冊の本が目に留まった。

美しい仏像の写真であった。

白黒の写真に写るその仏像は、手が細長く、右斜め前を見つめるような風に片方の手で頬杖をつく形のポーズで、空を表情のない瞳で見つめていた。

その本こそが私の本嫌いを本漬けに変えた本であった。

Siddhartha

ヘルマン・ヘッセ著

であった。

その本は、Siddharthaという名前の美しく頭の良い男性が、厳しい家を飛び出して、大金持ちになり、やがてその富を捨て、川の船渡しになり、最愛の息子に、かつて自分が父親にした様に旅立たれて、悟りを得る物語である。

私を本好きに変えた私自身の中に幼い頃から存在した感覚がある。

ヘルマン・ヘッセの著書全てに共通しても言えることだが、特に Siddhartha の中で、それは強く感じられた。

人生は、まるで川の様。自分が何処を流れているかよく注意しながら通り過ぎれば、どこに向かっているのか分かるものである。しかし、川の中に泳いでいる魚や川底の美しい石に心奪われている内は、向かっている先に何があるのかは分からない。

私たちは往々にして、過去にあったことに心を捕らわれる。

トラウマであったり、他人の言葉や表情であったり、失ったものであったり。

その、私たちを時にがんじがらめにしてしまう、しがらみから心が解き離れた時に、私たちが人生や、自分自身の意味が分かるのかも知れない。

https://ameblo.jp/prajnaparamitaya/entry-12684025579.htmlん

苦いこころから出る言葉

『心が乱れている時の自分自身の言葉は信じてはならない。

心が穏やかになるまで、じっと待つ。』

心が乱れる時、心が何かに対して反応している。

外からの刺激や内側から込み上げてくるものにであったりする。

そのような状態で、自分の口から出てくる言葉は、時にして自分でも信じられない程に激しいものになる。

それによって、取り返しのつかないことになったりもする。

特に、その言葉が他者に向けられた時、複雑にこじれる。

何故ならば、その言葉が、心の乱れた状態から出てきたものであることや、攻撃性がその他者に向けられたものではないことは、その他者には、時には自分自身にも認識できないからである。

だからこそ、何か言葉を発する時は、その相手が他者であろうが自分自身であろうが気を付けたい。

しかし、

神は、何故、私たちをお互いの心の中が見えないようにしたのであろうか。

たまに、例外も存在するらしいが、ほとんどの人々は相手の心の中は相手の表情や反応、発する言葉等等からでしか判断することはできない。

もしかしたら、私たちが、今、ここに存在する理由は、そんなところからも見えてくるのかも知れない。

https://ameblo.jp/prajnaparamitaya/entry-12683884628.html

“Be good to people for no reason.”

“人と接する時は、無償の善意で接しよう”

人は他者と接する時、相手によって対応を変えることがある。

その時の気分、相手との関係性が対応に影響する。

相手の容姿や生活習慣、価値観の違いで嫌悪感を抱き、邪険に扱うことがある。

相手の容姿や生活習慣で、自分より上だと感じた場合、相手を過剰に持ち上げ、媚を売ったりすることもある。

ここでは、相手の容姿や生活習慣等がどうであろうが、自分自身の基準に関係なく、全ての人に対して同じ様に接する様に述べている。

“no reason”の直訳は、”理由無く”であるが、ここでは、”無償の”と訳した。

何故ならば、この、”no reason”には、相手に対しての自分の中に起こる内的、外的要因を指しているからである。

そして、その要因とは、相手の容姿、生活習慣等に対しての自分の感情である。

全ての他者に対して、心から公平である為には、自分自身の心が強く、何に対してもぶれない強さを持っている必要である。